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vol08.継続は悟りなり

田部井豊:2010年7月

「大峯千日回峰行(おおみねせんにちかいほうぎょう)」という荒行をご存じだろうか。

回峰行とは、比叡山の山岳宗教を実践するために山中の聖地をお参りして回る修行で、平安時代に始まったとされる。大峯千日回峰行は選ばれた行者のみが行うことのできる荒行中の荒行だ。比叡山の僧侶酒井雄哉(さかいゆうさい)大阿闍梨(千日回峰行を達成したものが大阿闍梨と呼ばれるそうです)が千日回峰行を行なっている様子をNHKのドキュメンタリー番組でちらっと見た記憶がある。その時には大変な修行があるものだと思っただけだが、最近になって、吉野の金峯山寺(きんぷせんじ)で得度した塩沼亮潤(しおぬまりょうじゅん)大阿闍梨が、千日回峰行に挑んだ記事を読んだ。読んでみてその壮絶さに圧倒された。人間はここまで自らの肉体と精神を追い込めるものかと唖然とした。

比叡山と金峯山寺の大峯千日回峰行は同じような形式だが、金峯山寺から大峰山と呼ばれる山上ヶ岳までは片道24Km、標高差1300m以上の山道を16時間かけて一日で往復し、合計48,000Kmを歩く修行で、地理的な条件は金峯山寺のほうが比叡山より厳しいそうだ。回峰行ができるのは山開きの間だけなので9年間かけて千回峰行を行うことになる。さらに厳しい掟として、いかなる理由であれ入行して達成できなかった場合は、守護刀として持ち歩いている短刀で切腹するか、死出紐(しでひも)という紐で首をくくって命を絶たなければならない。

ちなみに箱根駅伝でもっとも苦しいとされる第5区「山上り」が23.4Kmで標高差864mである。東洋大学の「新山の神」柏原選手が1時間7分で走破したのも凄いが、大峯千日回峰行では深夜に出発して足場の悪い真っ暗な山道を提灯の明かりだけを頼りに進み、午前8時30分頃には頂上にたどり着くのだから想像を絶する。それに加えて雨、雪、酷暑、落雷などの悪天候に耐え、熊やまむしの出現にも備えての修行である。

なぜここまでの修行をするのだろうか。塩沼亮潤大阿闍梨曰く、「テレビで大峯千日回峰行を行った酒井雄哉阿闍梨さまのお姿を拝見したことで千日回峰行者になりたいと思った」。たぶん私が見たのと同じテレビ番組と思われるが、何という違いであろうか。

この壮絶な行を達成して何が変わったのだろうか。著書には、千日回峰行が満行したときには、達成感はなくただ行が終わるということだけだったと記されている。行に終わりはなく、千日回峰行の満行も一つの区切りとのことだ。千日回峰行のあいだ、土砂降りの雨の中でおにぎりを食べたときに、おにぎりが食べられることの感謝、多くの人に支えられている感謝、御仏や神仏に守られている感謝を感じたとのこと。極限状態だからこそ感じ取れる悟りがあるようだ。

では、我々、一般の者にとって悟りは遠い世界のことなのだろうか。氏曰く、「皆さんが千日回峰行をやったら社会が成りなたたない。人にはお役目があるのでそれぞれの立場で努力することが大切」。さらに「投げ出さずに続けることが大切」としている。

私ども食の円卓会議も活動を開始して6年目になった。円卓会議として活動している人たちは、意識するかしないかは別として何らかの役割(お役目)を感じているからこそ集って活動をしているのだろう。平成21度から照射食品の実験を行い、学会発表や市民とのコミュニケーションの場も設けた。食品問題に対していくつものパブリックコメントを提出し、照射食品と遺伝子組換えの問題については行政に意見書を出すなど、様々な活動に関わりつつある。幸いなことに、世論の関心に合致した意見書を出したときには、ホームページのアクセスが急増するなど、一定の認知が得られつつあるようだ。


塩沼亮潤氏の言葉を借りれば、行(学び)に終わりはなく、継続することが大切なら、我々に課せられた役割を続けた先にどんな悟りがあるのだろうか・・・と考えた。もっとも、真っ先に結果として「悟り」を考えている時点で、私には、「悟り」は縁のないものだということを悟ってしまった。