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vol03.学校給食第一号

福冨文武:2010年1月

戦後65年目の新春を迎えた。といっても、ここでいう戦争を知らない人が絶対的に多い時代になった。
 
私事で恐縮ですが、私は、昭和20年(1945年)4月、疎開先の岐阜県揖斐郡春日村にあった「国民学校」の新入生となり、山間の村道を毎日4キロ歩いての通学であった。夏休みに入って名古屋の自宅、といっても米軍の空襲で焼失していたので、母親の実家に間借りをした仮家に帰っているときに終戦(太平洋戦争で日本が降伏した)になった。そして、9月になって、もはや疎開する必要はなく、名古屋市の新制小学校の一年生として2学期の授業を受けることとなった。

終戦後の日本では、今のこの国では想像することが出来ないほどの食料不足に直面し、コメをはじめ多くの食品が配給制度の下で管理されていた。配給される冷凍魚ホッケや蒸かし芋だけでは空腹を満たすことはできず、食べられるものはすべて食べる時代であった。子供で出来ることとして、田んぼへ行ってウシガエル(食用蛙)やイナゴを採ってきて食材としたこともあった。また、狭い土地を耕して、趣味ではなく、生きるための家庭菜園を作り、野菜やサツマイモを作ったこともあった。サツマイモの葉や茎も食材になり、案外いけると食感を楽しんだ。

翌年、海外からの支援によって学校での給食が始められた。慢性的な空腹の中で始まった給食は、その後の日本国の発展を支えることになった昭和生まれの子供たちの救いであった。
初めての給食は、コッペパン1個と粉末スキムミルク1カップであった。
コッペパンは、ともかく空腹を満たすためには十分であったが、スキムミルクは始めての出会いのためになんとも受け入れがたく、多くの児童には不評であった。仕方がないので、湯に溶かさず、粉末のまま支給されることとなったが、大抵は、そのまま紙に包んでポケットに入れ、しかし、放課後にはお腹ごなしに舐めて空腹を癒した記憶がある。

国民の食料・栄養を維持向上するための努力が行政で進められていたが、ある県では、県民に対して「食育のすすめ」として、イタドリやスベリヒユなどの野草の上手な調理法を教えることもあった。

日本の食料自給率について、折々の警鐘が鳴らされながら、一般国民にとっては他国のこととしかとらえられていない。確かに、世界人口68億人のうち慢性の飢餓をこうむっている人々が10億人いるといってもわれ関せず!である。
一昨年、小麦の不作で輸入手当てが困難となり、価格が高騰しても、文句を言うことなく過ごしてしまったわが国民。なんと幸せな国であろうか。


朝食:茶碗一杯のご飯・蒸かしたジャガイモ2個・ぬか漬け二皿
昼食:焼きいも2本・蒸かしたジャガイモ1個・りんご1/4個
夕食:茶碗一杯のご飯・焼きいも1本・焼き魚一切れ
味噌汁は2日あたりお椀一杯、牛乳は6日にカップ一杯。

農林水産省の不測時の食料安全保障のなかで、すべての食料を国産でまかなうとしたら、として予測している毎日の食事メニュである。このことを知っている国民はどれほどいようか?

なんとも平和な国である。